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| まっ赤な大鳥居が目を引く小泉稲荷。秋になると周辺は見渡す限りのコスモス畑となり、白やピンクの可憐な花に清々しさを誘われる。花の海原に浮かぶかのような鳥居は、高さ22.17m。小泉地内への入口として昭和56年に建てられ、鳥居としては県内一の高さを誇る。
さて、お稲荷さまといえば商売繁盛のご利益で知られるが、本来は五穀豊穣の神。ここにお祀りされている倉稲魂命は、稲の精霊が神格化された食物神で、農耕を司るという。そもそも「稲荷」は「稲成る」が転訛したもの。稲の精霊の意味を持つといわれる。
神社の由緒書によれば、創建されたのは崇神天皇の時代。その第1皇子である豊城入彦命が東国平定の際に、案内の武臣が勅命によって山城国伏見稲荷大明神の分霊を祀り、安穏と五穀豊穣を祈願したと伝えられる。
拝殿の前にはその京都の伏見稲荷のように、大小の赤い鳥居がまるでトンネルのよう。3列、100mにわたって立ち並んでいる。鳥居の数は約250基。信者によって奉納されたものといわれ、境内に雅な景観を作っている。
稲荷信仰は江戸時代に広く盛んになり、この地でも領主久永源兵衛が社殿を修理して信心の範を示した。特に江戸時代末期には、祭礼日になると、近郷近在の参詣人でにぎわったという。 |

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境大間々線を走ると国定町一丁目には養寿寺がある。ここは小泉稲荷が多くの参詣人でにぎわったのと同じ幕末のころ、侠客として名を馳せ、41歳で波乱の生涯を閉じた国定忠治の菩提寺。のどかな田園風景を背にして、摩滅した忠治の墓碑が立っている。忠治の博才にあやかろうと、墓参りに来た人たちが削りとっていったためという。そのせいで今はフェンスに囲まれ、墓碑までも囚われ人のよう。関所破りの大罪で14本の槍を受け、磔刑に処せられたという「男」忠治の胸の内は、いかばかりだったのか。隣に「長岡忠治之墓」と刻まれた碑が建てられている。 |

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国定忠治は本名長岡忠次郎。文化7年(1810)、上州国定村に素封家の子として生まれた。17歳で人を殺め、大前田の博徒・英五郎(栄五郎)親分のもとに身を寄せる。以後、博徒ひと筋のアウトロー。21歳で結婚し、百々の紋次親分の跡目を継いだと伝えられる。
養寿寺の境内には国定忠治遺品館があり、ゆかりの品と資料が展示されている。忠治は子供のころ、この寺の貞然和尚の弟子として学問をしたが、ガキ大将でいつも暴れまわっていたとか。館内には田崎草雲が描いた忠治の肖像画の写しや、後年その似顔絵をもとに彫られた忠治の木像があるが、眼光鋭く堂々たる体躯。天保の大飢饉には身代を売り払っても施米をするなど、義賊としても語り継がれる忠治の一面を偲ばせる。愛用したという道中合羽や、大前田英五郎から贈られたとされる煙草入れ、賭場で使った駒札と寺銭箱なども、その生涯を物語る。 |

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小泉稲荷神社 周辺情報
あずま水生植物公園と大東神社
東屋を配した園内にはカキツバタと花しょうぶが、約2万株も植えられている。春先から初夏にかけて次々に花をつけ、小川のせせらぎとともにしっとりとした風情を楽しませる。入口には芭蕉の句碑が移設されていて、台座は街道の道しるべだったという。またうっそうとした木立に囲まれた古社は、由緒ある大東神社。一帯は江戸時代、徳川家の旗本久永家の領地で、ここには陣屋が建てられていた。その跡地に大正時代に移された大東神社は、歴史を遡れば第十代崇神天皇の御代(紀元前97〜29年)、東国開拓に訪れた豊城入彦命の武臣によって創建されたと伝えられる。
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お問い合わせ/「あずま支所 経済振興室」
伊勢崎市東町2668-1 TEL.0270-62-9913 |
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